昔の文章ー?

昔の文章ー?
発病のころ
「ブルー・トレインに乗りたい」と、何気ない娘の一言に、緊急にとってもらった検査用
のベッドを勝手にキャンセルして、浮かれ気分で花の吉野へ。思えば、何てふざけた患者
でしょう。
すでに両腕は上がらず、人指し指も動かなくなっていたので、担当の先生方は真剣に悩ん
でおられたというのに、最悪の患者です。
でもでも誰だって指が動かないくらいで、まさか死ぬとは思えないでじょう。
これは、極楽トンボの言い訳かな。

 石南花には、少し早い室生、爛漫の吉野を後に、父と待ち合わせた京都へ。
帰京後、入院準備。
娘を千葉の実家に預け、従兄弟と同じ保育所に短期入所をお願いした。
一人っ子の娘は、お古の制服が嬉しくて楽しそう。兄嫁手作りのお道具袋、初めての給食
、初夏に向かう自然など、5才の彼女には良い刺激だったと今も思っています。もちろん
、親にも負けない、娘への兄夫婦の溺愛ぶりを知っての上ですが。

 精密検査は3週間ほど。
結局、外科的な要因は見つからず、専門医の帰国を
待って、A.L.S(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受けた。
末期ガンの告知と同じだからと、主治医は夫に口止めしたらしいが、5分もたたない地下
の食堂で、私の「先生はなんて? 」の問いに、「筋萎縮性側索硬化症という筋肉の動き
が、悪くなる病気らしい」と教えてくれた。「ふぅーん」と、答えた私は、退院の嬉しさ
と病名がわかった安心感で、病気に対する興味は失せていて、頭中、娘だらけの生活に戻
ったのです。

 発病時の住居は本郷で、東大病院、順天堂病院、医科歯科大の3つの大学病院に徒歩5
分の好立地。手初めに1番近い東大へ。
2ヶ月通ってもらちがあかず、次に近い順天堂へ、それでだめなら医科歯科に行こうと、
お気楽なものでした。 娘を幼稚園に送ったついでに順天堂へ。ドクターは、すぐに精密
検査が必要なこと、ベッド待ちは3ヶ月だが、至急、手配することなどを話してくれた。

それなのに、この不良患者は、ベッドより桜なんだから呆れてしまう。

 病名は知らされたものの、毎日忙しい教育ママゴンは雑事に追われ、週3回の注射の時
以外ALSを忘れていたのですが、10日ほど過ぎたある日、いつものヒルトニン注射の
後、幼稚園のお迎えには少し時間があったので、自宅と病院のほぼ中間にあった湯島図書
館で時間を過ごすことにしました。
まさかそこで、人生最大のショックを受けることも知らずに。

 「筋萎縮性側索硬化症」は、すぐに見つけられて病気の説明、病状の経過と読み進むう
ち、予後の項目になって文字通り「頭の中が真っ白」。
何も考えていないのに、涙がボタボタ落ちる。出産以上の試練を知らず、嫌なことは避け
て生きてい
た私に、「予後は悪く5、6年で死亡」の文節は、思考の許容範囲をはるかに越えて、考
えるより先に涙が落ちた。呆然としたまま 幼稚園に向かえば、涙、涙、空を見て涙、赤
信号で涙、涙が一人歩きして、このまま止まらないんじゃないかと思ったほど。異変に気
づいた友人達は、娘を迎えに行ってくれると、一人でいないように、夫の帰宅まで付き添
ってくれた。病名を知らせたとき、すぐに調べた彼女達は、私よりずっと早く泣いていて
、結局、知らなかったのは本人だけという、何とも呆れたお話し。帰宅した夫に「本当に
5、6年なの?」と聞けば、「そんなところだ」と言う。
「何故教えたの?」と責めれば、「隠し通せると思わなかったから」と答える。当時は、
何とも思わなかったけれど、後々、落ち着いて考えたら、2、3ヶ月は、悶々と悩むのも
、夫の基本ではないのかなぁ。

 さすがに、ことの重大さに気づいて、自分で確認しようと、父を伴いドクターに面会す
るも、高齢の父を気遣って当たり障りのないことしか言えないドクターの様子に、不思議
と、すうーっと力が抜けて、それを境に開き直ってしまったのです。
父のショックは相当なもので、同行した義妹によると、帰りの車中 父は泣いていたとの
こと。不覚にも父の老いを忘れていた。
それから父は「娘より後に、死にたくない」
と言い初め、3年後に母、4年後には、父も亡くなり、11年後、詐欺のように私だけ生
きている。

97/3 記
ボルドーの当たり年じゃん?!