2年前の文章

2年前の文章

ALSを生きる  
★ALS(筋萎縮性側索硬化症)について
 筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせい・そくさくこうかしょう)は、ニューヨーク・
ヤンキースの鉄人ルー・ゲーリック選手が罹患したことから、米国で
は「ルー・ゲーリック病」として広く知られています。残念ながら、彼は発病後3年で亡
くなりました。60年以上も前のことです。
 宇宙物理学のホーキング博士も著名な患者の一人です。5年ほど前にユニクロのコマー
シャルにも出演されていましたね。

 ALSは国の定める特定疾患、いわゆる難病のひとつです。運動神経をつかさどる細胞
だけが選択的におかされ、終末期には呼吸筋も眼球も動かなくなる、
結構(かなり)むごくも不思議な病気です(終末期と書きましたが、私は人工呼吸器を使
用して14年です。自分の終末はバッテリーの切れた時だと思ってい
ます)。

 病態や進行は個体差が大きく、発症の年齢も様々です。私は自分の進行が一番スタンダ
ードなタイプだと信じている人であります。発症年齢は平均より若す
ぎるのですが、実年齢と肉体的な年齢は必ずしも一致しないものですからね。

 本当に不思議な病気で、興味深い世界です。

 テニスの帰りに倒れ救急搬送されて、いきなり人工呼吸器をつける人もいます。歩けな
くなる人、発声ができなくなる人、食べることが出来なくなる人もい
ます。

 食べるということ。

 食事という言葉は単純ですが、食材の買い出しには脚力と腕力が必要ですし、調理には
更に繊細な技術が必要です。食べることに関しても、ナイフとフォー
クを持ち、口元まで食物を運び、噛み砕き、飲み込む事が食事で、その全てが困難になる
病気がALSです。

 その他、いろいろな症状が様々に出現し、最後は脳だけが生き残り「脳生」とまで呼ば
れてしまう、それがALSの現実です。知人は発病して四半世紀を過
ごしていますが、今も、よく食べ、よく笑い、口にくわえた筆で優しい水彩画を描いてい
ます。


★私のALS
 はじめて「変だぞっ」と感じたのは22年前の1985年の秋でした。
年中組の娘を幼稚園に送った後の、デパート屋上のテニス・スクールでのことでした。マ
シーンから打ち出されるボールに何度もラケットをはじかれて、握力低下に気付いたので
す。

 当初は、周囲も私自身も腱鞘炎(けんしょうえん)と決め付けていましたので、そのう
ち治るでしょう、と放っておいたのです。ですが、12月に入ると軽
い物も持ち上がらなくなりました。娘の幼稚園は教会の経営で、クリスマスイブにハンド
ベルを演奏する事が幼稚園の母親の慣例でしたが、その年は高音の小さなベルも、胸の高
さまで挙げる事ができなくなっていたのです。

 そろそろマズイと思いながらも「腱鞘炎は注射で治るから」と知人に言われていたので
、注射嫌いの私は受診を先延ばしにしていました。普通の大人には理解できないと思いま
すが、私の病院嫌い注射嫌いは病的で、成人した後もひとりでは歯医者にも行けず、父と
一緒に行ったほどの怖がりさんです。

 以下に年譜をざっと記します。アバウトな人なので、半年や一年の記憶のズレはご容赦
ください(大切な事と、一般に言う無駄なことを整理できない記憶回路の持ち主です)。

 発病時の住所は文京区本郷三丁目、A大学医学部付属病院の最寄り門の近くでした。家
族構成は、夫34歳,娘5歳,本人32歳でした。

 自覚症状が出たのは、1985年の9月だったと思います。運痴クンの私が、何を思っ
てかテニス・スクールに通い始めて二クール目だったと思います。

 初診は翌年1月末、A大学医学部付属病院整形外科でした。診断は、尺骨(しゃっこつ
)神経マヒ。「長くかかります」と、最初の医師に言われたのに、2カ月後の三人目の医
師には「この薬を飲み終わるころには、治っていると思うので、予約の必要はないでしょう」
と言われました。しかし、自分でも悪くなっている自覚があったので、4月の上旬(?)に
B病院整形外科を受診しました。所定の検査の後、原因が見つからず精密検査を勧められました。
病院はすぐに緊急ベッドを手配してくれましたが、一度目はキャンセルして(後に述べる旅行のため)
、二度目にベッドが空いた5月半ばに入院しました。

 1986年6月ーーCTスキャン、ミエロン(脊髄造影検査?)。現・国立精神神経セ
ンター国府台病院名誉院長、佐藤猛先生より筋萎縮性側索硬化症の診断を受けました。

 同年6月末ーー難病認定終了。佐藤先生からは「転ぶようになったら、ご実家のご家族
と同居したほうが良いでしょう」というアドバイスをいただきました。
 翌月には難病手当申請。特定疾患医療券交付。
 難病手当とタクシー券給付。

 同年9月ーー練馬区の夫の実家に転居(病状の為ではなく、方位に凝っていた嫁ぎ先の
都合)。

 同年10月ーー障害者手帳二級取得。税の減免のためです。
 佐藤先生に、実家近くの亀田総合病院(千葉県鴨川市)を紹介していただき受診。いず
れは実家に戻るつもりだったのです。
1987年1月ーー娘を連れて私の実家に転居
これは私が「娘の求めるものは、全て与える」という妙な育児方針を持っていたからです
。母親に抱きしめる腕が無いのならば、誰かに私の腕の代わりをして貰わなければならず、
四人の兄嫁と母に役割を振っただけです。
 同月ーー障害基礎年金申請。
     特別障害者手当申請。
     東京都重度心身障害者手当申請。

 1990年8月ーー娘の受験準備のため帰京
 亀田総合病院で私の担当だった看護学生に、夏季休暇中の介護を依頼。
 練馬保健所(現・豊玉保健相談所)、すずしろ診療所に訪問介護を依頼。
 脳性マヒ者等介護人派遣制度により、有償ボランティアの派遣を受ける。
 障害者ヘルプサービスにより、ヘルパー派遣を受ける。土日、夜間は、自費で民間の看
護派遣を依頼
 1991年4月ーー障害者用PCソフト購入。
 1992年10月ーー帝京病院入院。気管切開。 1993年1月ーー人工呼吸器装着

 同年5月ーー退院。現在の介護体制となる。

 ALSは、進行性の難病で私自身も難病中の難病と冠される事が多くあります。長い経
過の中で、全ての運動機能を失う方もおられます。個体差が大きく、
医療・福祉環境の地域間格差も顕著な、いわゆる最重度の障害者でもあります。私は32
歳で発症、腕を失い(腕はあるのに機能が無い)、歩行を失い(脚は立派なのですが)、
声を失い(診断の半年後には、時おり声が裏返っていました)、呼吸を失い、20年後の
今を普通に生きています。難病である事も最重度の障害者である事も、全てを受け止めて
普通に地域で暮らし、その為の努力をしている自分自身が大好きです。