ネコばてのぽん

「ALSの力を信じてる。強く未来を信じてる!」
日本ALS協会として初めて「被災地支援の街頭募金」を始める前夜、夜勤の学生二人と作った横断幕のメッセージである。
ACのスマップのCMの模倣であることは否定できないところであるが、何か伝えなければ、伝えて呼び戻さなければ、東北のALS文化が社会から消えてしまいそうな不安に付きまとわれて、眠剤の量だけが増える日々を過ごしていた。

2011年3月11日14時46分、東京は震度5強の長いゆれの中にいて、4階の部屋ですら頭が左右におおきくゆれていた。4階の高さでも介護用ベットは揺れる。震度2でも、もれなく揺れてしまう。震度5強の揺れは「不動の身体」ALSをも、ベッドから揺さぶり落としそうな怖い大きな揺れで、揺れながら「1階に引っ越ししよう」と考えていた。
 玄関のドアを開け、ベッドをほぼフラットにギャッジダウン。(ちなみに今時の介護用べッドは、停電時にギャッジダウンだけはできますので、ご自分のベッドについてご確認ください。これは重要なことです)フラットにしなければベッドから転げ落ちそうな余震がつづく。学生のロッカーが倒れて、グラスが1客割れて、私の被災者としての立場は終了となった。もちろん、心はずっと癒えませんが。。。
 テレビにはCGかと目を疑う映像が、何度も何度も流れている。海が陸地を追い回しているような不思議な映像で、実写と納得できるまで少し時間が掛かった。 何か見えない力に打ちのめされて、自分が支援者の立ち場である事を思い出したものである。
 ALSは重度重複障がい者ではあるが、国の定める特定疾患で最も重篤な分類の病人でもある。介助者がいてくれれば生活できる人々では無い。介助者プラス災害時は、1〜2名の避難要員と電力、様々な滅菌医療用品が無ければ生存は危うい。こんな大災害では、動ける人のネットワークが必要である。同時に、ALS特有の物流の確保も必要である。
この災害を受けて日本ALS協会では、東日本大震災支援委員会を立ち上げている(委員長は事務局長金沢公明)、募金委員長は自称追いはぎの橋本某で、玄関とテーブルに募金箱を置いて24時間手抜き募金。まだお振込でない方は、どうぞ日本ALS協会にお尋ねの上、お振込をお待ちしております。03-3234-9155まで。

さて、3月19日はいわき自立生活センターが、戸山サンライズに避難してきた記念すべき日である。偶然ALS協会の理事会であったので、紙おむつや果物おにぎりなどを持っていくと、いわきではおにぎりばかり食べていたので飽きた、と言われ、紙おむつも使わないのに集まっちゃったんだよね、と元気な長谷川さんに言われてほっと安心。
彼らのガソリン事情は最悪で、静岡とか広島から集めたものを高速を乗り継いで調達してヘルパーを派遣していた。東京のガソリンスタンドは2日ほどで長蛇の列ができた。
実は、ALS患者は物がなくて介護者もいなくて切ない現実で「じゃあ仙台に頂戴」と避難民の長谷川さんに言えるほどALSは逼迫していた。
つい最近、総合福祉部会の医療合同作業チームで岡山の末光先生に「うちでは離れた地域から支援し合うシステムができています」と言われ、目からうろこの思いであった。今回の被災地も、北東北と南東北に分かれてブロック活動していたが、北も南も被災していたので物資を最初に盛岡に届けることができたのは近畿ブロックだった。末光先生の言われるように、東北が被災したら東海が支援するというやり方は、とても合理的で羨ましい。
ALS協会では、品物を私が集めて川口がCILにお願いする、という不合理なやり方を続けていた。東京一極集中の物資集めは、すぐに破綻し駅前のスーパーマーケットからカップめんが消え、水が消えトイレットペーパーが消えて、空になった棚が一月も続きこの国の未来を憂いたものである、
3月19日は色々な意味で分岐点で、理事会中に様々な出来事が交錯していた。
「花巻の病院で電力不足による吸引器の使用困難でご高齢の方が10人近く亡くなられた」と報道関係者からメールが入り、看護協会から「来週盛岡に行くけど、何かありますか?」とメールが入っていた。また一方で、いわきから40人近い利用者とヘルパーやってきていた。そんないわきでも呼吸器を付けた患者は動かずにいわきに留まったので、ヘルパーも動けずにいたり、2月にJALSA講習会でご講演いただいた関先生のいわき病院津波で浸水して、入院中のALS患者はヘリコプターで関東や日本海側に移送されていた。たった1ヶ月の間にこんなことが起きようとは、皆様に心よりお見舞い申し上げます。
3月は、色々な用があって頻繁に厚労省に出掛けていた。厚労省の動きは早く沢山あったのに、沿岸部の被災地は、時が止まっています。小学生が給食にパンと牛乳とヨーグルトという信じられないメニューで、「カレーライスが食べたい」と言っているほど、復興は進んでいません。
この大震災で多くのことを学びました。CILの情熱的な支援、看護協会など専門職の構造的なボランティア、様々なネットワークの存在。現地の保健師に比べて、こちらの保健師のゆったりとして、イラッとする対応。
保健師のネットワークが、10年前ほど機能していれば、地域住民も頼る場所があったのに残念です。そうは言っても、ほとんどの保健師が殉職された地域もあるので、残された保健師は日本中、世界中に、この信じられない被災から報告を広めてほしいものである。被災地の季節がめぐるように、

3月末に、極寒の新宿でJILの皆さんと始めた街頭募金も、5月末で休止し長期的に必要な支援について模索している。
この災害を経験した国として、国民も国家も学ばなければならない。非常時に食パンを8斤も買っては社会的ではないという小さな教育。
それぞれに任を持って社会に暮す人々は国民の期待を裏切ってはならない。
具体的には地域保健の衰退である。保健師は保健所は、地域保健法の理念を守り地域住民の健康を守ることから始めようではないか。
最後に、被災された全ての方々の輝く未来のために、努力していきましょう。