誰の尊厳のために


昨日2012,3,22は尊厳死議連の総会でした。

そもそも私は尊厳死という死の呼び方が死ぬほど嫌いです。
常に善行を重ね徳を積み死に備えなさい。と誰かに言われている気がする私がいます。

清水哲郎先生は、尊厳を人権に置き換えてはいかが?と言われます。

そうは言われても、権利と義務は表裏一体と教えられて育った身には悩ましい。
厚顔な人々のように、自分自身が尊厳ある存在とは未だに考えられないのです。

せんせー、尊厳=人権は少し無理かも知れません。。橋本的人種にはですけれど。
一般うけを狙うのならば、尊厳をプライドに置き換えたほうが良いです。

プライドを法律にすることにも、もっと無理があります。

殺す側と殺される側、死なせる側と死ぬ側、死にたい側と死なせたい側の死の呼称が同じという点も、お手軽すぎで無礼だと思う。。。

慈悲殺と安楽死、自殺ほう助と自殺。

死なせる方法を決めるのだから、オランダのように自殺ほう助法の議論をすれば良い。
高齢者の胃ろうに反対ならば、事前指示書を高齢者に書いてもらえばいい。
高齢者の臓器がいらなければ、そう書けばいい。

15歳の死生観と65歳の死生観が同じだと考える方が不自然です。